「立党以来最大の危機」を乗り越えようという決意が、本当にあるのだろうか。自民党の現状を見る限り、疑念を抱かざるを得ない。
自民党の定期大会が、18日に開かれる。
自民党は1955年の結党以来、90年代の一時期を除き、ほぼ一貫して政権を担ってきた。しかし、麻生内閣の支持率は低迷し、政党支持率も民主党に追い上げられている。政権から転落しかねないがけっぷちに立っている。
大会で採択される予定の運動方針案は、経済危機をはじめ、憲法改正や教育、安全保障など、「わが党でなければ責任ある解決ができない問題がいまだ山積している」と自負し、麻生首相の下で一致団結して「責任ある政治」を行うと強調している。
だが、参院選後、首相が毎年交代し、こうした国の基本にかかわる改革はほとんど手つかずだ。
小泉改革の功罪を総括し、今年行われる総選挙で国民に信を問うための新たな政権公約作りも、中断したままである。
安心できる社会保障財源を確保するには、消費税率引き上げが避けられない。
それなのに、2011年度からの税率引き上げを税制関連法案の付則に明記するという首相の方針に対し、自民党から再び反対論が出ている。
総選挙に向けて、財源論があいまいな民主党との違いを際だたせるのが首相の狙いだ。その足を自民党議員が引っ張り、民主党に揺さぶりの材料を与えている。
最近も、08年度第2次補正予算案に盛り込んだ定額給付金を巡り、党内に異論がくすぶり、衆院本会議の採決で造反者を出したばかりである。渡辺喜美・元行政改革相は、公務員制度改革への不満なども理由に挙げ、離党した。
こうしたことを繰り返していては、首相の指導力に疑問符がつくばかりか、自民党に対する国民の信頼感も損なわれていく。
態勢を立て直すには、自民党として総選挙で何を訴えるのか、中堅・若手議員も交えてしっかりと議論することが肝要だ。党執行部の調整力が問われる。
民主党が総選挙で訴える「政権交代」を「幻想にすぎない」と打ち消すだけでは、政治の現状に閉塞(へいそく)感を抱いている国民を自民党に振り向かせることはできまい。
まずは、党内結束を強化し、予算を早期に成立させることだ。政権与党としての「責任」は、実績で示すよりほかはない。
今年の業績見込みのみならず
Thu 22 Jan’09
年末から年始にかけての日本株は上昇し、日経平均は一時9,000円台を回復する展開となった。米景気対策への期待を背景とした米株高が支援材料となった。為替市場で円安ドル高が進んだこともあり、売り込まれていた輸出関連企業への買い戻しが指数の押し上げにつながった。ただし、年末年始の薄商いの中、期待のみで上昇した面は否めず、先週末にかけて米株が下げに転じると利益確定売りが上値を抑制した。
米国株式相場は「行って来い」の展開となった。年末から自動車業界に対する支援策決定や、オバマ次期政権による景気対策への期待を背景に上昇し、年明けにダウ平均は一時9,000ドル台を回復した。
自動車業界に対しては、TARP(不良資産救済プログラム)を利用した大手メーカー2社への支援(12/19)のほか、その汎用化である自動車産業金融支援プログラム(12/31)が発表された。また、景気刺激策については7,750億ドル規模となり、うち3,000億ドル程度が減税に充てられる方向である。
ただし、先週半ば以降は12月のADP民間雇用者数の大幅減(1/7)やハイテク大手の慎重な収益見通しなどから景気や企業業績悪化の深刻さが意識され、利益確定売りも出て上げ幅は縮小した。先週末から今週初にかけても、12月の雇用統計(12/9)などが悪材料となって続落し、年始にかけての上昇はほぼ相殺された。
2 見通し:景気や企業業績の悪化が意識され、上値重い
今週の日本株は米株や為替にらみで主体性の乏しい相場展開が続こう。海外投資家は一時期に比べ売り圧力が弱まっているが、景気に対する見方が弱い中で、景気敏感と捉えられている日本株を積極的に買うことはないであろう。むしろ、相場の戻り局面では解約を凍結していたヘッジファンドによる凍結解除をにらんだ売りが増える可能性がある。国内経済指標も急速に悪化しているなか、為替が円高に振れれば再び輸出関連株への売り圧力が強まることになろう。
米国株式相場は、上値の重い展開を予想する。今月20日のオバマ大統領就任を控え、引き続き景気対策への期待が相場を下支えることから、目先は大幅に株価が下落することはなさそうだ。ただし、昨年の減税で殆ど効果がみられなかったこともあり、規模の大きさだけを捉えて楽観論が広がるとも考え難い。10~12月決算発表への警戒感に加え、今週も12月の小売売上高(1/14)や1月のNY・フィラデルフィア連銀景況指数(共に1/15)など経済環境の厳しさを示す指標の発表が続くため、上値は抑制され易いとみている。
3 注目点:米企業の決算発表
今週は米国企業の10~12月期決算発表が本格化するが、経済指標が急激に悪化している中で、決算に対する警戒感も強まっている。先週末から今週初の米株市場では主要企業のなかで最も決算発表の早いアルコアの決算発表(12/12)に対する警戒感が売り材料となったが、実際に発表された決算は6年ぶりの赤字であった。
今年の業績見込みのみならず、来年の業績見通しも下方修正が続いており、先行きの業績に対して慎重な見通しが続けば、株価の上値を抑制する要因となろう。また、月末にかけては国内主要企業の決算発表も控えており、業績に関するネガティブな報道や為替動向も注目され易いであろう。
4 ズバリ:今週の予想レンジは 予想レンジ TOPIX 770~870pts. 日経平均 8,000~9,000円 米国の景気刺激策
報道によれば、オバマ次期政権と新議会は7,750億ドル程度(米ウォール・ストリート・ジャーナル、2009/1/5)の大規模な景気対策を打ち出す模様である。景気刺激効果の表れ方や共和党議員の賛同の得られやすさの点から、これまで伝えられていた「公共事業」に加えて「減税」が組み込まれる方向となっている。その規模は総額3,000億ドルで、うち所得減税が1,500億ドル相当と報じられた。
これは、過去のブッシュ減税(2001/02=1,740億ドル、2004/05=2,310億ドル、2008=1,680億ドル)と比べても巨額であり、仮に7~9月期に1,500億ドルの減税が実施されれば、実質GDPを前期比年率6%程度押し上げると試算される。ただし、昨年の減税は貯蓄や負債の返済などに回った分も多かったとみられ、予想されていたほどの政策効果は現れなかった。
一方、次期政権は2年間で300万人の雇用(労働力人口の2%相当)を回復するとしており、これは規模でいえばGDP比5%相当に達する。仮に減税が家計の貯蓄や企業の内部留保に消えても、公共事業(真水)だけでGDP比3%近い大きさとなる。政策効果についての見方は分かれているが、当面はこうした景気刺激策への期待が相場の下支え要因となる可能性が高い。
※当レポートは情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。本資料は、当社が信頼できると判断した各種データに基づき作成されておりますが、その正確性、確実性を保証するものではありません。また、本資料に記載された内容は予告なしに変更されることもあります。
米国株式相場は「行って来い」の展開となった。年末から自動車業界に対する支援策決定や、オバマ次期政権による景気対策への期待を背景に上昇し、年明けにダウ平均は一時9,000ドル台を回復した。
自動車業界に対しては、TARP(不良資産救済プログラム)を利用した大手メーカー2社への支援(12/19)のほか、その汎用化である自動車産業金融支援プログラム(12/31)が発表された。また、景気刺激策については7,750億ドル規模となり、うち3,000億ドル程度が減税に充てられる方向である。
ただし、先週半ば以降は12月のADP民間雇用者数の大幅減(1/7)やハイテク大手の慎重な収益見通しなどから景気や企業業績悪化の深刻さが意識され、利益確定売りも出て上げ幅は縮小した。先週末から今週初にかけても、12月の雇用統計(12/9)などが悪材料となって続落し、年始にかけての上昇はほぼ相殺された。
2 見通し:景気や企業業績の悪化が意識され、上値重い
今週の日本株は米株や為替にらみで主体性の乏しい相場展開が続こう。海外投資家は一時期に比べ売り圧力が弱まっているが、景気に対する見方が弱い中で、景気敏感と捉えられている日本株を積極的に買うことはないであろう。むしろ、相場の戻り局面では解約を凍結していたヘッジファンドによる凍結解除をにらんだ売りが増える可能性がある。国内経済指標も急速に悪化しているなか、為替が円高に振れれば再び輸出関連株への売り圧力が強まることになろう。
米国株式相場は、上値の重い展開を予想する。今月20日のオバマ大統領就任を控え、引き続き景気対策への期待が相場を下支えることから、目先は大幅に株価が下落することはなさそうだ。ただし、昨年の減税で殆ど効果がみられなかったこともあり、規模の大きさだけを捉えて楽観論が広がるとも考え難い。10~12月決算発表への警戒感に加え、今週も12月の小売売上高(1/14)や1月のNY・フィラデルフィア連銀景況指数(共に1/15)など経済環境の厳しさを示す指標の発表が続くため、上値は抑制され易いとみている。
3 注目点:米企業の決算発表
今週は米国企業の10~12月期決算発表が本格化するが、経済指標が急激に悪化している中で、決算に対する警戒感も強まっている。先週末から今週初の米株市場では主要企業のなかで最も決算発表の早いアルコアの決算発表(12/12)に対する警戒感が売り材料となったが、実際に発表された決算は6年ぶりの赤字であった。
今年の業績見込みのみならず、来年の業績見通しも下方修正が続いており、先行きの業績に対して慎重な見通しが続けば、株価の上値を抑制する要因となろう。また、月末にかけては国内主要企業の決算発表も控えており、業績に関するネガティブな報道や為替動向も注目され易いであろう。
4 ズバリ:今週の予想レンジは 予想レンジ TOPIX 770~870pts. 日経平均 8,000~9,000円 米国の景気刺激策
報道によれば、オバマ次期政権と新議会は7,750億ドル程度(米ウォール・ストリート・ジャーナル、2009/1/5)の大規模な景気対策を打ち出す模様である。景気刺激効果の表れ方や共和党議員の賛同の得られやすさの点から、これまで伝えられていた「公共事業」に加えて「減税」が組み込まれる方向となっている。その規模は総額3,000億ドルで、うち所得減税が1,500億ドル相当と報じられた。
これは、過去のブッシュ減税(2001/02=1,740億ドル、2004/05=2,310億ドル、2008=1,680億ドル)と比べても巨額であり、仮に7~9月期に1,500億ドルの減税が実施されれば、実質GDPを前期比年率6%程度押し上げると試算される。ただし、昨年の減税は貯蓄や負債の返済などに回った分も多かったとみられ、予想されていたほどの政策効果は現れなかった。
一方、次期政権は2年間で300万人の雇用(労働力人口の2%相当)を回復するとしており、これは規模でいえばGDP比5%相当に達する。仮に減税が家計の貯蓄や企業の内部留保に消えても、公共事業(真水)だけでGDP比3%近い大きさとなる。政策効果についての見方は分かれているが、当面はこうした景気刺激策への期待が相場の下支え要因となる可能性が高い。
※当レポートは情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。本資料は、当社が信頼できると判断した各種データに基づき作成されておりますが、その正確性、確実性を保証するものではありません。また、本資料に記載された内容は予告なしに変更されることもあります。
— posted by サイト管理者 at 07:26 pm
再放送を見ながら
Sat 10 Jan’09
帰宅すると、会社員の夫はワイシャツ姿のまま、冷め切って白い脂が浮く肉じゃがのラップをはがし、無言で白飯とともにかきこんだ。「今、チンするからね」。言いかけた言葉を、妻(43)はのみ込んだ。「うまい」とねぎらってほしいのに、温めることすらしない。切ないが、慣れてしまった。
仕事に没頭する姿にひかれ、社員食堂で自らアプローチした。収入に不満はなく、東京の郊外にあるマンションで主婦業に専念する。まじめな夫を友人はうらやむが、退屈さとの境はかすんでしまった。もうずっと別々のベッドで眠る。
高校生の一人娘は小学生のころ、発熱や嘔吐(おうと)を伴う自家中毒と診断された。「あなたは過保護すぎる」。小児科医に指摘され、はっとした。雨の日には傘と長靴を玄関に並べておく。事前に何でも準備してあげることが理想の母親だと信じてきた。でも、娘はストレスを感じていた。口出しを控えると頼られる回数が減り、娘の相談相手は友人に変わった。もっと子供を産んで面倒をみたかった。
夕方、ドラマの再放送を見ながら家族の帰りを待つ。娘が少しでも帰宅の予定時間に遅れると、携帯電話で居場所を聞き、つい怒鳴る。「スケジュールを把握するのは母親の務め」。言い訳しても八つ当たりと見透かされた。家族の世話を焼くことが生活のすべて。床に落ちている髪の毛一本を見逃さず、おやつは手作りにこだわった。家事に力を入れるほど、自分が家政婦のように思えてきた。
感謝の気持ちが薄い家族に腹が立ち、2年前、一晩家を飛び出した。「私は何のためにいるの」。友人に愚痴をぶちまけた。帰宅すると、何かが吹っ切れていた。
「人妻があなたをお待ちしています」。半年後、歯科医院の待合室で手にとった男性向け週刊誌に、性風俗店の広告を見つけた。とっさに電話番号をメモした。「暴力団が経営しているのだろうか」。トラブルが頭に浮かんだが、家族への依存を断ち、想像もつかない世界に飛び込んでみたいという思いが背中を押した。1週間後、震える手で自宅近くの公衆電話の受話器を握っていた。
髪形を変えても気付かない夫は派遣会社で働いているといううそを信じ込んでいる。「パートに出ることは恥ずかしいから誰にも言うな」と条件を付けることは忘れなかった。「好きなことをすればいいよ」と気遣ってくれれば、思いとどまったかもしれないのに。
昼過ぎまでに家事を済ませ、サンダルをハイヒールに履き替える。かかとが地面を打つ音を聞くと背筋が伸びる。指名を受けると客の待つホテルを訪ねる。独身時代には軽蔑(けいべつ)していた職業だが、ロングヘアを褒められる度に女として見られる喜びを思い返した。PTAでは話せない「本音」をさらせるのも心地よかった。
客に別の名前で呼ばれる時、どちらが本当の自分なのか、一瞬見えなくなる。「でも、家族がいることで私は守られている」。店からもらう給料には決して手を付けない。
帰り道、なじみのスーパーの前で歩みを緩める。入り口に張られた安売りチラシを確認して家に向かう。冷蔵庫の中身が自然と思い浮かぶ時、家族の中の自分に戻っている。
仕事に没頭する姿にひかれ、社員食堂で自らアプローチした。収入に不満はなく、東京の郊外にあるマンションで主婦業に専念する。まじめな夫を友人はうらやむが、退屈さとの境はかすんでしまった。もうずっと別々のベッドで眠る。
高校生の一人娘は小学生のころ、発熱や嘔吐(おうと)を伴う自家中毒と診断された。「あなたは過保護すぎる」。小児科医に指摘され、はっとした。雨の日には傘と長靴を玄関に並べておく。事前に何でも準備してあげることが理想の母親だと信じてきた。でも、娘はストレスを感じていた。口出しを控えると頼られる回数が減り、娘の相談相手は友人に変わった。もっと子供を産んで面倒をみたかった。
夕方、ドラマの再放送を見ながら家族の帰りを待つ。娘が少しでも帰宅の予定時間に遅れると、携帯電話で居場所を聞き、つい怒鳴る。「スケジュールを把握するのは母親の務め」。言い訳しても八つ当たりと見透かされた。家族の世話を焼くことが生活のすべて。床に落ちている髪の毛一本を見逃さず、おやつは手作りにこだわった。家事に力を入れるほど、自分が家政婦のように思えてきた。
感謝の気持ちが薄い家族に腹が立ち、2年前、一晩家を飛び出した。「私は何のためにいるの」。友人に愚痴をぶちまけた。帰宅すると、何かが吹っ切れていた。
「人妻があなたをお待ちしています」。半年後、歯科医院の待合室で手にとった男性向け週刊誌に、性風俗店の広告を見つけた。とっさに電話番号をメモした。「暴力団が経営しているのだろうか」。トラブルが頭に浮かんだが、家族への依存を断ち、想像もつかない世界に飛び込んでみたいという思いが背中を押した。1週間後、震える手で自宅近くの公衆電話の受話器を握っていた。
髪形を変えても気付かない夫は派遣会社で働いているといううそを信じ込んでいる。「パートに出ることは恥ずかしいから誰にも言うな」と条件を付けることは忘れなかった。「好きなことをすればいいよ」と気遣ってくれれば、思いとどまったかもしれないのに。
昼過ぎまでに家事を済ませ、サンダルをハイヒールに履き替える。かかとが地面を打つ音を聞くと背筋が伸びる。指名を受けると客の待つホテルを訪ねる。独身時代には軽蔑(けいべつ)していた職業だが、ロングヘアを褒められる度に女として見られる喜びを思い返した。PTAでは話せない「本音」をさらせるのも心地よかった。
客に別の名前で呼ばれる時、どちらが本当の自分なのか、一瞬見えなくなる。「でも、家族がいることで私は守られている」。店からもらう給料には決して手を付けない。
帰り道、なじみのスーパーの前で歩みを緩める。入り口に張られた安売りチラシを確認して家に向かう。冷蔵庫の中身が自然と思い浮かぶ時、家族の中の自分に戻っている。
— posted by サイト管理者 at 02:55 pm
城山包囲態勢を完成させた
Sat 27 Dec’08
9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20~30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。
狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警備
城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
後廻 ─ 小隊長園田武一
後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。
丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第二旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第三旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第四旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第一旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
下伊敷 ─ 別働第二旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。
西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。
午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。
確認作業中です。
狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警備
城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
後廻 ─ 小隊長園田武一
後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。
丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第二旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第三旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第四旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第一旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
下伊敷 ─ 別働第二旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。
西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。
午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。
確認作業中です。
— posted by サイト管理者 at 06:07 pm
最初の前方後円墳
Sat 13 Dec’08
ヤマト王権(やまとおうけん)とは、古墳時代に倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した王権・政権である。主に奈良盆地を本拠とした。かつては大和朝廷(やまとちょうてい)という呼称が用いられていた。
目次 [非表示]
1 名称について
2 成立期
3 展開期
4 転換期
5 確立期
6 王号
7 ヤマトの範囲
8 異説・俗説
9 脚注
10 関連項目
11 参考文献
[編集] 名称について
1970年代より以前は大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は奈良時代以降のものであるとともに、この政治勢力を説明するには「朝廷」という用語は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく大和政権、ヤマト政権、倭国政権、倭王権などの呼称を用いる研究者も少なくない。日本の学習指導要領は大和朝廷の呼称を採用している。
[編集] 成立期
弥生時代においても帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが纏向遺跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが、纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっている。纏向遺跡が中国史書における邪馬台国であったかどうかは議論の余地がある。しかし、纏向遺跡に搬入された土器特徴から、考古学的にはおそくとも弥生時代末期までには、纏向遺跡の地を支配する勢力を中心に東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州までの各地の政治勢力がなんらかの形で参加したヤマト王権の原型ともいえる緩やかな政治連合が形成されていたことになる。また最近では特に弥生時代末期における特に出雲勢力の鉄の普及によりヤマト王権が勃興したことが考古学的に明らかにされている。
対して、古墳時代に入ると規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は3世紀前葉~中葉に出現しているのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。
各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。
ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼-壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説などがある。
[編集] 展開期
前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内~瀬戸内海沿岸(吉備など)~北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。
よく理解できました。
目次 [非表示]
1 名称について
2 成立期
3 展開期
4 転換期
5 確立期
6 王号
7 ヤマトの範囲
8 異説・俗説
9 脚注
10 関連項目
11 参考文献
[編集] 名称について
1970年代より以前は大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は奈良時代以降のものであるとともに、この政治勢力を説明するには「朝廷」という用語は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく大和政権、ヤマト政権、倭国政権、倭王権などの呼称を用いる研究者も少なくない。日本の学習指導要領は大和朝廷の呼称を採用している。
[編集] 成立期
弥生時代においても帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが纏向遺跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが、纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっている。纏向遺跡が中国史書における邪馬台国であったかどうかは議論の余地がある。しかし、纏向遺跡に搬入された土器特徴から、考古学的にはおそくとも弥生時代末期までには、纏向遺跡の地を支配する勢力を中心に東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州までの各地の政治勢力がなんらかの形で参加したヤマト王権の原型ともいえる緩やかな政治連合が形成されていたことになる。また最近では特に弥生時代末期における特に出雲勢力の鉄の普及によりヤマト王権が勃興したことが考古学的に明らかにされている。
対して、古墳時代に入ると規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は3世紀前葉~中葉に出現しているのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。
各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。
ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼-壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説などがある。
[編集] 展開期
前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内~瀬戸内海沿岸(吉備など)~北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。
よく理解できました。
— posted by サイト管理者 at 11:04 am














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